怒られなくても伸びる

怒られなくても伸びる

私達の世代はパワハラで育っていますが、現代はそれは無理です。修行時代に腹立ったことは今でも覚えていて、特に自分の努力と関係ないように思える(作った賄いが美味しくなかったときの)「お前のお母さん料理へたくそやったんやね」とか、歩き方が悪いみたいな料理関係ないこととか。

その点親方の(賄いが美味しくなかったときの)「努力してゴミ作ったね」は完全に自分のせいですから、ゴミというきつい言い方をしていても、納得して頑張ろうというモチベーションになると思うのです。これが「お前はお母さんの作ったゴミを毎日食べてた」だったら感じかたはどうでしょうか。

当時はよくも悪くも毎日延々と文句を言われるのが当たり前でした。でもかつてのその指導がダメだと言われたときにこちらはやり方を考えないといけません。優しく指導をするのかあきらめて何も言わないのか。

逐一指導をすることと指導をせず放置する(長い目で見る)ことを比べたときに、逐一指導をするほうが従業員のスキルアップにつながります。この動きはダメ、こうしたほうがいいというわけですから。指導をせずに放置してみて弱点が直ることはまずありません。指導しないことには本人に弱点がわからないからです。

でも従業員がたくさんいてみんなが同じ店の中でやるのであれば自分が怒られなくてもスキルは伸ばすことはできます。人の失敗をよく見て、それが誰の失敗であっても自分も反省するということです。誰だって体罰、言葉責め、嫌だと思います。怒られても何の反省もなければ伸びることはありません。本人が強い反省をしているということが伝われば周りの反応も変わります。

独立をしたら誰も指導してくれません。技術を伸ばそうとしたときに自分で勉強することしか自分の弱点を意識することはできません。誰かと比べて劣っているところを探し、それに対して反省し、自分もそうなろうと努力する。こう書くと当たり前だと思うでしょうか。従業員のうちにそれができる子は独立してもできますし、それができなかった子は独立した瞬間から下り坂が始まります。

わからないことを人に聞かないほうがいい。自分がわからないということは現在困っているということです。私は人は困ることに直面しないと動かないと思っていて、従業員もどんどん困らせようとしています。困ったときにやっと工夫する気持ちが生まれます。自分がわからないことがあって、それは恥ずかしいことですので努力して調べます。でもわからない。資料が足りないのか勉強が足りないのかわかりませんがまた困ります。その困っている記憶、気がかりを10年持ち続けたら、日々の勉強や思考、自分の技術の成長からヒントを得られて、ふとしたときに解決することができます。

うちの発酵食品を作るときもそうで、漠然と豆板醤を作りたいと思う、でもケカビもないし唐辛子の処理が生なのか塩漬けなのか、そら豆は乾燥なのか生なのかわからない。わからないなら調べるしかない、でもその資料が見つからない、心の中にそういう気持ちを持ちながら試作を重ねるのではなくイメージトレーニングをする。それができたときに豆板醤をうまく作るタイミングは必ず訪れると思います。

中国語は最初にピンインと発音さえしっかりやればあとは人に教わらなくてもなんとかなると思います。中国料理も同じで基礎ができたらあとは人に教わらなくても課題はいくらでもあります。その課題を探す力を身につけると他人の指導なんて必要なくなります。先輩に怒られることがなくなるのです。一緒に働いている先輩の質問と本を読んでいて浮かんだ疑問は、どちらが難しいでしょうか。先輩にすぐ答えを教わって解決した知識と本で必死に調べて自分で答えを出した知識、どちらが記憶に残るでしょうか。